衛生管理者 労働生理 問78:ストレス・疲労
乳酸閾値(AT)と運動疲労に関する次の記述のうち、**誤っているもの**はどれか。
- ア乳酸閾値(LT: lactate threshold)とは、運動強度の増加に伴って血中乳酸濃度が急激に上昇し始める運動強度の点をいい、嫌気性代謝閾値(AT: anaerobic threshold)とほぼ同義で使われることが多い。
- イLT/AT以下の運動強度(有酸素域)では、主に有酸素代謝(ミトコンドリアの酸化的リン酸化)でエネルギーが産生され、乳酸の産生と除去がほぼ均衡するため血中乳酸はほぼ一定に保たれる。
- ウLT/ATを超えた運動強度(無酸素域)では解糖系(嫌気性代謝)の割合が急増し、乳酸産生が除去を上回って血中乳酸が急上昇する。この状態では換気量も急増する(換気閾値: VT)が、これは乳酸性アシドーシスを緩衝するためにHCO₃⁻が消費されてCO₂が増加し呼吸中枢を刺激するためである。
- エ乳酸閾値(LT)は一般に最大酸素摂取量(VO₂max)の60〜70%程度で生じるが、持久系トレーニングによってLT/ATが高いVO₂max%で生じるようになる(ATシフト)。これにより同じ有酸素運動強度での疲労が遅くなる。
- オ乳酸自体が直接疲労の原因物質として筋肉収縮を完全に阻害するため、乳酸を産生しない有酸素代謝では筋肉疲労は絶対に生じない。正答
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誤りはオです。2つの点で誤りです。①乳酸は直接の疲労原因物質ではないという現代的理解があります(乳酸は疲労産物というより乳酸シャトルでエネルギー源に再利用される)。疲労の本質は乳酸よりも水素イオン(H⁺)蓄積によるpH低下・ATPの絶対量不足・Ca²⁺処理能力の低下です。②有酸素代謝でも筋肉疲労は生じます。長時間の有酸素運動(マラソン等)ではグリコーゲン枯渇・脱水・電解質失バランス等によって疲労が起きます。「乳酸を産生しない有酸素代謝では疲労が絶対に生じない」は誤りです。
各選択肢の正誤と根拠:
- ア(正): LT(乳酸閾値)はITU/運動生理学でよく使われる用語で、血中乳酸濃度が急上昇する運動強度の点です。AT(嫌気性代謝閾値: anaerobic threshold)はWassermanらが提唱した概念で、「酸素消費量の割に換気量が急増する(換気閾値=VT)」点から間接的に推定されます。LTとATは完全に同一ではありませんが(乳酸は直接測定、ATは換気から間接推定)、おおよそ同じ運動強度で生じるため同義的に用いられます。
- イ(正): AT以下の強度では、乳酸産生(解糖系)と乳酸除去(乳酸シャトル: 周辺筋線維・肝臓・心筋でのTCA回路利用)が平衡するため、血中乳酸は約1〜2 mmol/L(安静時)前後で安定します。VO₂もほぼ線形に増加し、換気量の過度な増加はみられません。
- ウ(正): AT超過後: 解糖系産生乳酸増加→乳酸シャトル処理能力を超える→血中乳酸急上昇(通常2〜4 mmol/L以上)→乳酸性アシドーシス(pH低下)→緩衝系: HCO₃⁻+H⁺→H₂CO₃→CO₂+H₂O→CO₂増加→呼吸中枢刺激→換気量急増(換気閾値VT)。これが「息が上がる」現象の生理的メカニズムです。
- エ(正): 持久系トレーニング(耐久系ランニング・水泳等)によるAT向上(ATシフト): ①遅筋(タイプI)の割合増加・ミトコンドリア数増加→有酸素代謝能力向上②毛細血管密度増加→乳酸の清掃・輸送速度向上③乳酸脱水素酵素(LDH)のアイソフォーム変化→乳酸→ピルビン酸への変換促進。ATがVO₂maxの70〜85%で生じるようになれば、より高強度まで乳酸蓄積せずに有酸素的に走れます(マラソン選手の高AT)。
- オ(誤): 2つの誤りを含みます。①「乳酸自体が直接疲労を完全に阻害する」: 現代の運動生理学では乳酸は疲労の直接原因ではなく、むしろ水素イオン(H⁺)によるpH低下・Ca²⁺調節障害・ATPの絶対量不足が筋肉疲労の主因とされています(乳酸シャトル仮説: Brooks 1986〜)。乳酸自体はエネルギー源として積極的に利用されます。②「有酸素代謝では疲労が絶対に生じない」: 長時間有酸素運動(マラソン・トライアスロン等)ではグリコーゲン枯渇・脱水・体温上昇・電解質異常(Na⁺・Mg²⁺・K⁺)によって確実に疲労します。乳酸産生が少なくても疲労は生じます。
#### 1. 乳酸の現代的理解(乳酸シャトル仮説)
George Brooksの「乳酸シャトル仮説(Lactate shuttle hypothesis, 1986〜)」は乳酸の理解を根本的に変えました:
従来の理解(古典的見解):
- 乳酸 = 廃棄物・疲労物質(嫌気性代謝の「ゴミ」)
- 運動後の「筋肉痛」や疲労感の原因は乳酸蓄積
現代の理解(乳酸シャトル仮説):
- 乳酸は細胞間・臓器間の「エネルギー通貨」として機能
- 速筋(解糖系主体)で産生された乳酸→MCT(モノカルボン酸トランスポーター)で隣の遅筋・心筋・肝臓・脳へ輸送→ミトコンドリアでピルビン酸→アセチルCoA→TCA→ATP産生
- 脳も乳酸をエネルギー源として積極的に利用(認知機能維持の一助)
- 心筋は乳酸を好んで利用する(心臓はほぼ完全有酸素臓器)
- 肝臓では乳酸→糖新生→グルコース(コリ回路)
実際の疲労原因(現代の理解):
1. H⁺(水素イオン)によるpH低下: 解糖系でのATP分解→H⁺蓄積→筋細胞pH低下(7.4→6.6〜6.8)→アクチン-ミオシン架橋活性低下・Ca²⁺感受性低下
2. Pi(リン酸無機)の蓄積: ATP→ADP+Pi→Pi蓄積→収縮機構の直接阻害
3. Ca²⁺調節の障害: 筋小胞体のCa²⁺ポンプ機能低下→Ca²⁺放出不十分
4. ATP枯渇: 絶対量が不足→架橋形成不能
5. 乳酸自体は疲労の主因ではない(むしろエネルギー輸送体)
#### 2. AT測定と産業衛生(作業強度評価)
作業代謝率(RMR)とATの対応:
- RMR(作業代謝率)= (作業代謝量 - 安静代謝量) / 基礎代謝量
- AT前(有酸素域)の作業 = 持続可能な作業強度
- AT超(無酸素域)の作業 = 乳酸蓄積・疲労が急速に進む
重量物取扱作業のAT評価:
- 持続可能な作業強度の目安: 最大酸素摂取量(VO₂max)の40〜50%以下
- 工場・物流・建設現場での重作業評価に心拍数モニタリング(HR-AT法)が使用可能
Borg自覚的運動強度(RPE)スケール:
- 6〜20のスケール(6=まったく楽・20=最大強度)
- AT付近の自覚的強度はRPE約12〜14(「ちょっとつらい」〜「つらい」)
- 心拍数の推定: RPE×10 ≈ HR(例: RPE14→HR140bpm)
#### 3. 持久系トレーニングによる生理的適応と職場応用
持久系トレーニングの主要な生理的適応:
ミトコンドリア:
- 遅筋・速筋の両方でミトコンドリア数増加・機能向上(VO₂max向上の主因)
- PGC-1α(ミトコンドリア生合成の転写共役因子)が運動刺激(AMPK活性化・Ca²⁺シグナル)で誘導
心臓:
- 安静時心拍数低下(スポーツ心臓: 徐脈)
- 1回拍出量増加(心室拡張:スターリング機構)
- 最大心拍出量増加
骨格筋:
- 毛細血管密度増加(拡散距離短縮・酸素供給効率向上)
- ミオグロビン含量増加(細胞内O₂貯蔵・拡散促進)
- MCT発現増加(乳酸シャトル効率向上)
職場への応用(健康増進・産業衛生):
- AT向上に最も効果的なトレーニング: 中強度持続的有酸素運動(AT付近での運動: 週3〜5回・30〜60分)
- 特定健診の「運動習慣なし」改善のための保健指導
- 重作業職の体力測定(VO₂max・AT)による職業能力評価と配置転換の判断
#### 4. 衛生管理者試験での頻出論点と職場への応用
試験では「LT/AT=乳酸が急上昇し始める運動強度の点(VO₂maxの60〜70%程度)」「AT以下=乳酸産生と除去が均衡・有酸素代謝主体」「AT超=乳酸急上昇・換気量急増(VT・ビカーボネートのCO₂補充刺激)」「持久系トレーニング→ATシフト(より高い強度まで有酸素)」「乳酸は疲労の直接原因でなく、疲労の本質はH⁺蓄積・Ca²⁺障害・ATP枯渇」が頻出です。オの誤りは「乳酸=疲労の唯一原因・有酸素では疲労なし」という二重の誤りです。
【根拠】医学的事実(確立した運動生理学)。LT/AT・乳酸シャトル・筋疲労の現代的理解(H⁺・Pi・Ca²⁺が主因)・持久系トレーニングのATシフトは確立した知識。
【補足】オが誤り:乳酸自体は疲労の直接原因でなく(乳酸シャトルでエネルギー利用される)、疲労の本質はH⁺蓄積・ATPの枯渇・Ca²⁺調節障害。有酸素代謝でもグリコーゲン枯渇・脱水等で疲労は生じる。
本問は合格ナビが作成したオリジナル問題です(公表問題の転載ではありません)。 根拠・出典:根拠: 医学的事実(確立した運動生理学)。乳酸自体が筋肉疲労の直接的かつ唯一の原因ではない(現代の理解)。有酸素代謝でも筋肉疲労は生じる。 現行の労働安全衛生法令(2026年基準)に準拠し、根拠法令・規則を明記しています。